ストーリーの橋の端

個人のアウトプット・スペースです。

騒がれている問題の本質は何ですか?

今、熱い政治的イシューと言えば?

最近、強く思うことがあります。世間を賑わせている社会的、政治的なニュースについてです。

 

と言っても、ニュースそのものじゃなく、「これはなぜ問題となるのだろう?」という根本的な部分についてです。

 

たとえば、最近の森友学園加計学園の問題。政治に興味のない人でも、これが今ワイドショーの最前線に乗せられているイシューだとは中学生でも知っているでしょう。しかし、この世間を賑わしている話題の何が問題なのか、ズバッと答えられる人が、どれくらいいるかは見当もつきません。

 

それはなぜ、問題となっているのですか?

森友学園加計学園の問題。これらは、なぜマスコミで問題視され、多くの国民が関心を持っているような雰囲気となっているのか?

 

テレビや新聞が言うように、安倍総理への忖度があったからか? 時の権力者と近い人物が不透明に利益を得たからだろうか?

 

ひょっとすると、「森友・加計がなぜ問題なのか」の問いに対して、多くの人がそう答えるかもしれない。

 

私は、全く別の見解を持っている。

 

先の問いを投げられたら、私は迷わずこう答える。

 

「それは、マスコミが問題にしているから」だと。

 

何が問題かは、マスコミが決めている

多くの国民が、「何となく」沖縄に基地があるのは問題だと考えている。それは言われている通り、沖縄県民への負担が重いから? それとも、環境破壊があるから?

 

それは違います。マスコミが騒いでいるから、みんな問題だと感じているのです。

 

森友・加計、沖縄の基地、あるいは原発歴史認識の問題も、御多分に漏れず同じことが言えると思います。

 

「問題があるから、マスコミが取り上げるんだろう」という反論が来るかもしれません。では、すべての問題を、マスコミは取り上げてくれているのでしょうか?

 

政治家の失言や不祥事、汚職にしたって、そのすべてが俎上に上がっているわけではありません。「どの政治家の、何を問題とするか」は、テレビや新聞の世界にいる人たちが決め、「世間」という陳列棚に品出しされます。奥の在庫棚には、世の中に出された問題より、もっと根が深く、影響や重要度の高いニュースが店ざらしにされているかもしれませんが、マスコミがオープンにしてくれなければ私たち国民は全く知る由もありません。

 

問題にされなかった拉致事件

マスコミが取り上げなかったことで、世間の多くの人が問題があるにもかかわらずその問題性に気付かず、長年放置され続けたニュースや事件はたくさんあります。その典型例が、北朝鮮による拉致事件でしょう。

 

横田めぐみさんをはじめとする、多くの日本人が北朝鮮工作員によって拉致された事案。これがマスコミに大々的に取り上げられるようになったきっかけは、小泉政権下での日朝拉致交渉あたりからです。2002年、当時北のトップだった金正日が小泉元首相との会談で拉致を認めるまでは、多くの日本国民は北朝鮮による拉致の実態を知らされず、時を過ごしてきたことになります。

 

実は、北朝鮮が国内で多くの日本人を拉致していることは、一部の政治家や警察、自衛隊関係者、メディアの間では周知の事実でした。政府が公式の場でその問題を認識したのは、昭和63年参院予算委員会での「梶山答弁」でしょう。

 

国家公安委員長(当時)の梶山静六が、日本人アベック失踪事件に関して、「北朝鮮による拉致の疑いが極めて濃厚」と答弁したのです。スナックのバーや居酒屋の席で漏らした言葉ではありません。公安のトップが、国会という場でそう発言したのです、なのに、この証言を取り上げたのは産経新聞のみで、ほかのメディアはすべてスルーしたのです。

 

果たして、これはマスコミにスルーされる問題でしょうか? 日本国民が、長年、他国に連れ去られた事件を、「別に問題ない」と答える国民がいるでしょうか? 残念ながら、その当たり前ともいえる感覚が日本のマスコミになかったということでしょう。

 

指さす方向でなく、その指をさしている人間を見てみよう

一般的に、日本人は政治に関心が持てないと言います。本来、民主主義の国で国民が政治に無関心であることは、かなり危険な状態であると考えます。国民と政治の間に横たわる巨大な空白を突いて、好き放題やっている集団が存在することに、そろそろ国民は気づくべきではないでしょうか。

 

加計学園の問題について、多くの国民が疑念を抱いています」今日もどこかの報道番組で、ニュースキャスターがしたり顔で言っているのが聞こえてきそうです。あたかもすべての国民を代弁するかのような口ぶりで、そこには確信犯的な世論誘導の意図も見え隠れします。

 

ブラウン管から飛び込んでくる言葉を、何も考えず、漠然と受け入れているだけでは、問題ないことでも問題あるかのように思い込んでしまいます。そんな状態を、「洗脳」と言うんじゃないでしょうか。

 

某定食屋でのグチ

私がよく利用する有名全国チェーンの某定食屋に対し、言いたいことがある。

 

いや、正確には、お店ではなく、そこにご飯を食べにやってくる客に対してである。

 

このお店は、全国的にも知られる有名チェーンの定食屋で、お代わり自由がセールスポイントの食べ物屋さんである。メニューも豊富で、ご飯もおいしく、なおかつお代わり自由ときたら、行きつけとして利用したくなるのは私のようなアラフォー独身会社員だけではないだろう。そんなことは、重々承知しているつもりだ。

 

しかし、それでも言いたい。そこに集う一部の客に。

 

ここは居酒屋ではないんだぞ。

 

ここはファミレスでもないんだぞ。

 

まして、何時間もダラダラ居座ることを許された喫茶店じゃないんだぞ。

 

なぜ、決して広くはない駅前の定食屋に、5人も6人もの団体客がドカドカと押しかけてくるのか? このお店のマックス席は4人掛けテーブルである。それはつまり、それほど多くの団体客を想定したお店の作りにはなっていない、ということを意味するのだ。

 

この店舗に限らず、だいたいの定食屋はそんなもんだろう。

 

お店の選択を間違えている、と感じるのは、私だけだろうか。

 

それとも、単に私の了見が狭いだけだろうか。

 

気心のしれた連中と大人数で詰めかけて、ごちそうさまが済んでもすぐに帰るわけがないのだ。絶対、小1時間くらい、あーでもないこーでもないとくだらないおしゃべりを続けるに決まっているのだ。つまり、この連中はハナから長居をするつもりで来ているのだろうと、いらぬ勘繰りを入れたくなる。

 

確かにこの定食屋は、ビールやおつまみも売っているので、安い居酒屋の代わりにはなるだろう。ファミレスに入っていろいろ注文するよりも、財布に優しくてお得かもしれない。そんな計算も働くからこそ、手軽に利用する集団の客も多いのだろう。けれど、定食屋の基本は定食を食べること。これに異論のある人はいないだろう。そして食べたらできるだけ早くお暇する。これも、多くの利用客の間で暗黙の了解となっているはず。だから、大学生がサークルの打ち上げなどに使っているところを見ると、どうしても眉をひそめたくなるのだ。

 

別に、間違いではないことはよく分かっている。お店としても、大勢の客が来店してくれて繁盛するのはうれしいはずだ。店長でもスタッフでもなく、一常連に過ぎない私がとやかく言う問題ではないことも確かだ。しかしそれでも、「本当にその選択でいいんですか?」と問いたいのだ。

 

本当は本人たちか、お店の店員にグチをこぼしたいのだけれど、それは完全なお門違いであると分かっているから、こうしてブログで愚痴っているのである。