ストーリーの橋の端

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※アゴラ記事の転載「満州事変から88年 陸軍帝国を招来した無力政治」

※言論プラットフォーム「アゴラ」にて掲載された拙文に一部修正を加え転載します

 

9月18日は満州事変が突発した日である。陸軍主導の軍閥政治はこのとき種子が蒔かれ、政党政治の崩壊を知らせる早鐘もこのとき鳴った。


満州事変は、「軍部の暴走」で済ませてよい問題か。事を起こした関東軍は陸軍を構成するひとつの軍隊組織に過ぎず、さらにいえば日本国家の一組織である。関東軍をコントロールするだけの統治能力が政府にあれば、その影響は極力抑えられたはずだ。

 

しかし、ときの政府は外政・内政の課題にうまく対応できず、その一方で政権をめぐる権力闘争には執心した。未曾有の不景気に苦しむ国民と、国民の期待を背負う軍部は改革の必要性を感じ取っていた。

 

満州事変発生時、政権を運営していたのは第2次若槻礼次郎内閣(民政党)である。当時の外務大臣幣原喜重郎は中国に対して不干渉主義を貫いた。実質何もしなかったと言っていい。中国大陸では排外ナショナリズムが充満し、日本人居留民へのテロや不法行為が多発していたにもかかわらず、だ。関東軍が刀を抜いたのは、無力の幣原外交に終止符を打つためでもあった。


奉天関東軍が張学良の軍と衝突」。急報を聞いた政府は閣僚を集めて緊急会議を開く。南次郎陸相は正当防衛を主張。幣原外務大臣は外務省ルートの情報から「関東軍の計画的行動という線が濃厚」との見方を示した。事実、満州事変は石原莞爾関東軍作戦参謀、板垣征四郎高級参謀らが仕掛けた謀略だった。若槻内閣は不拡大方針を発表し、関東軍の動きを牽制した。

 

 

外務省からは亜細亜局第一課長の守島悟郎を派遣。奉天の林総領事と面会した守島は、「軍部を抑えるには、民政会と政友会が手を合わせ連立内閣を組むほかにない」との伝言を携え帰国する。当時は政権与党の民政党と、野党である政友会が激しい政治闘争を繰り広げていたが、この国難を前に小事を捨てて協力しあうべきというのである。

 


しかし、外務省で守島と面会した幣原は「そんなことできるか」と拒絶する。欧米に対しては「国際協調」、中国に対しては「不干渉主義」を貫く穏健派も、国内の政敵に対しては一切歩み寄ろうとはしなかった。

 


そもそも幣原には勝算があった。陸軍大臣の南次郎は政権に近い宇垣系の軍人で、派閥の長である宇垣一成陸軍大臣時代に「宇垣軍縮」と呼ばれる大改革を断行し、軍内の強硬な反対派を抑え込んだ調整能力を持つ。その宇垣の推薦で大臣職に就いた南次郎だから期待できるはず。さらに参謀長の金谷範三も幣原外交に理解を示す人物だった。心強い協力者が陸軍内の重要ポストにいるわけだから、政友会の力を借りずとも関東軍の暴走を食い止める自信があったのだ。

 


幣原のそんな展望も、「朝鮮軍の独断越境」という報で暗転する。朝鮮内の日本軍越境は国外出兵に相当し、内閣の閣議を経て天皇の奉勅命令ではじめて認められる。この手続きを無視することは重大な越権行為であり、厳罰は免れない。石原たちはそんな高いハードルも易々と踏み越えていくほど、満州占領の執念に燃えていたのである。その行動は中央でくすぶる陸軍参謀たちを突き動かした。

 


満州事変の1カ月後、陸軍中央の参謀らが国家改造を唱えて謀議を図るクーデター未遂事件(十月事件)が発生。その余波で若槻内閣は崩壊した。首謀者たちに対する厳正な処分が求められたが、陸軍首脳は不満分子の反動を怖れ中途半端な処分でお茶を濁す。下克上の気風は確実に陸軍組織を蝕んでいた。

 


度重なる軍部の不祥事を受けて進退を迫られた若槻総理大臣は、内務大臣安達謙蔵から「協力内閣」の樹立を提案される。この難局を乗り切るには民政党・政友会が手を結ぶしかない。奉天占領があったばかりのときに林総領事が外務省に投げたのと同じ提案であった。しかし、若槻は政党政治を否定する協力内閣には難色を示し、閣僚たちも猛反発した。結局、安達が反旗を翻したことで若槻内閣は総辞職を選んだ。

 


若槻は戦後、矢次一夫との対談で「安達は久原房之助(政友会)と手を結んだ悪党だよ。軍部に対しては迎合せず、毅然と対処しなければならない。軍部を抑えたかったが、その機会を得られず終わって残念に思う」と無念を滲ませた言葉を残している。あのまま若槻内閣が続いたとして軍閥政治の芽を摘めたかは検証が必要だろう。

 


満州事変後に惹起した軍閥政治は、ふたつの大きな政治システムの改悪をもって頂点を極めた。岡田啓介内閣で成立した「在満政治機構改組」は、満州の事務権限を陸軍に明け渡すもので、これにより満州国の軍事・外交・行政の一切を関東軍司令官が掌握せしめる制度基盤が完成した。さらに広田弘毅内閣で「陸海軍現役武官制度」が復活。内閣の生殺与奪権は事実上軍部が握った。こうして「政府のなかの陸軍政府」は誕生した。

 


ちなみに岡田内閣は、満州事変時の最高責任者である本庄繁、満州国創立時の陸相である荒木貞夫への男爵授爵の奏請を陛下に対して行っている。軍部の要求を丸呑みするだけの論功行賞は、決起をうかがう陸軍の反動分子たちにどう映ったか。日米戦争に反対し、東条内閣の倒閣を強く働きかけた岡田啓介に対しては、戦後一定の評価もなされるが、肝心の総理大臣時代に何をしたかについてもしっかり見ておかなければならない。

 


満州事変のような、国家の命運を左右する大事件に対応できるほど、国内の政治基盤は盤石ではなかった。有為の人材も乏しかったといえよう。有事のときほど政権の安定と強さが問われる。これはいつの時代にあっても不変といえる。