ストーリーの橋の端

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窮地の台湾。日本は中国と蜜月? 歴史にみる日本外交の基(転載記事)

日本と歴史的なつながりの深い台湾が、窮地に追い込まれている。9月下旬、南太平洋のソロモン諸島、太平洋中部の連邦国家キリバスが、たて続けに台湾との国交を断絶すると発表した。理由は中国と国交を結ぶためだ。巨額の経済支援を餌にこれらの太平洋諸国を取り込んだ中国外交は狡知に長けている。台湾の孤立化を狙う中国は、来年1月の総統選を見据え、次なる布石を打ってくる恐れもある。

 

中国は台湾だけでなく、香港、チベットウイグルなどにも激しい抑圧を加えて支配下に置こうと躍起だ。中国にとってこれらの周辺国・地域は防波堤の意味を持ち、決壊すれば民主主義や欧米資本といった“外敵”が怒涛のごとく押し寄せてくる。その恐怖が中国共産党の意識下にあるのは間違いない。中国にとって、台湾や香港、チベットウイグルといった国境と接する地域は、外敵から中央を守る“万里の長城”なのだ。近隣国の勢力を弱めて支配下に置き、その手段として外縁の国と結ぶ「遠交近攻」は、中国の伝統的な外交政策といっていい。

 

中国の野望に対し、日本はどのように対処すべきか。日本の外交政策の「かたち」は何が基本かを考えるとき、歴史がヒントになる。遠交近攻を伝統としてきた陸続きの大陸国家に対し、海に囲まれる海洋国家・日本は「隣国の安定化」を外交・防衛の基礎としてきた。

 

天智天皇の時代には百済からの要請で白村江の戦いに参戦したが、その目的は朝鮮半島の安定化にあった。近代の日清・日露戦役も、朝鮮半島の独立がわが国に平和と安定をもたらすとの考えから起こした戦争だった。朝鮮を独立させ、併合して日本の一部に組み込むと、日本式のやり方で統治を推し進めた。その方法は欧米流の搾取とも中国的な華夷秩序とも違う、教育・インフラ・行政機能などを強化して日本の一部としてまとめあげる同化政策だった

 

台湾でも同様の手法で統治が試みられた。先住民族を強硬に抑えつけることはせず、こちらから歩み寄る姿勢で調和を図る。その方面でもっとも功績があったのが、第四代総督の児玉源太郎である。

 

日本が統治をはじめたころの台湾は土匪(山賊や野盗の集団)が横行し、治安も乱れ不安定な情勢にあった。児玉は、それまでの武力をちらつかせる武断統治を見直し、現地住民の生活習慣や風俗に合わせる温情政策で臨んだ。討伐より交渉、抑圧より協調を重視し、後藤新平民政長官とのコンビで民政に励んだ結果、土匪の帰順に成功する。惻隠の情をもって原住民と接し、心を開かせるやり方で台湾に秩序と安定をもたらしたのである。

 

このような日台の歴史から学び、台湾との関係を大切にしたいところだが、現政権は中国との関係に配慮して、台湾情勢に関しても静観、傍観、座視に甘んじている。朝鮮半島問題や中東情勢など国際的な不安要素を抱えるなか、今は中国との協調が地域の安定に寄与するとの戦略からだろう。日本としては、政官民あげて台湾との友好関係を強化したいところだ。

 

これは台湾が友好国だからという理由だけでなく、日本の安全保障を左右する隣国であり、一党独裁共産党政権と対峙する民主主義国家という点において、戦略上きわめて重要な国だからである。その認識は国民全体で共有しておきたい。

 

そこで、最後に「東部開拓の父」と呼ばれ、台湾初の日本人村を開拓した実業家・賀田金三郎について紹介しよう。

 

賀田は安政4年(1857年)萩の生まれ。若い時から商才を発揮し、日本有数の財閥企業を渡り歩いた。明治28年には大倉財閥の台湾総支配人になる。その後は独立、実業家として台湾で成功するも、彼のなかでは常に「祖国のために働きたい」という思いがたぎっていた。

 

そんな賀田に、台湾総督府の児玉と民政長官の後藤が目をつけた。当時、海と山に挟まれた東岸沿いの地域は開拓が難しく、近代化の妨げとなった。この難事業を成功させるうべく、賀田は粉骨砕身でこの難事業に取り組む。

 

賀田は総督府に東部開発計画書を提出すると、東部地域に「賀田組」を設立。製陶業や畜産業、製脳業(樟脳を製造)、運送業などを幅広く手掛ける多角経営の会社で、移民事業にも着手して多くの日本人移民を受け入れた。台湾初の日本人村となった「賀田村」は、やがて周辺の町村と合併して今の花蓮地域を形成する。たくさんの日本人が移り住んだおかげで不毛の地といわれた東部はおおいに活況を呈した。賀田組は台湾全土に支社を置くほどの規模に成長し、公益の果実は全国くまなく及んだ。

 

「稼いだお金はすべて台湾のために使う」をモットーにした賀田は、事業成功で得たお金を台湾のお寺や公共事業のために使った。台湾近代化のために生涯をささげた在野の日本人実業家がいたことを、現代のわれわれは胸に刻んでおきたい。

 

アゴラに投稿した記事の転載です。

※アゴラ記事の転載「満州事変から88年 陸軍帝国を招来した無力政治」

※言論プラットフォーム「アゴラ」にて掲載された拙文に一部修正を加え転載します

 

9月18日は満州事変が突発した日である。陸軍主導の軍閥政治はこのとき種子が蒔かれ、政党政治の崩壊を知らせる早鐘もこのとき鳴った。


満州事変は、「軍部の暴走」で済ませてよい問題か。事を起こした関東軍は陸軍を構成するひとつの軍隊組織に過ぎず、さらにいえば日本国家の一組織である。関東軍をコントロールするだけの統治能力が政府にあれば、その影響は極力抑えられたはずだ。

 

しかし、ときの政府は外政・内政の課題にうまく対応できず、その一方で政権をめぐる権力闘争には執心した。未曾有の不景気に苦しむ国民と、国民の期待を背負う軍部は改革の必要性を感じ取っていた。

 

満州事変発生時、政権を運営していたのは第2次若槻礼次郎内閣(民政党)である。当時の外務大臣幣原喜重郎は中国に対して不干渉主義を貫いた。実質何もしなかったと言っていい。中国大陸では排外ナショナリズムが充満し、日本人居留民へのテロや不法行為が多発していたにもかかわらず、だ。関東軍が刀を抜いたのは、無力の幣原外交に終止符を打つためでもあった。


奉天関東軍が張学良の軍と衝突」。急報を聞いた政府は閣僚を集めて緊急会議を開く。南次郎陸相は正当防衛を主張。幣原外務大臣は外務省ルートの情報から「関東軍の計画的行動という線が濃厚」との見方を示した。事実、満州事変は石原莞爾関東軍作戦参謀、板垣征四郎高級参謀らが仕掛けた謀略だった。若槻内閣は不拡大方針を発表し、関東軍の動きを牽制した。

 

 

外務省からは亜細亜局第一課長の守島悟郎を派遣。奉天の林総領事と面会した守島は、「軍部を抑えるには、民政会と政友会が手を合わせ連立内閣を組むほかにない」との伝言を携え帰国する。当時は政権与党の民政党と、野党である政友会が激しい政治闘争を繰り広げていたが、この国難を前に小事を捨てて協力しあうべきというのである。

 


しかし、外務省で守島と面会した幣原は「そんなことできるか」と拒絶する。欧米に対しては「国際協調」、中国に対しては「不干渉主義」を貫く穏健派も、国内の政敵に対しては一切歩み寄ろうとはしなかった。

 


そもそも幣原には勝算があった。陸軍大臣の南次郎は政権に近い宇垣系の軍人で、派閥の長である宇垣一成陸軍大臣時代に「宇垣軍縮」と呼ばれる大改革を断行し、軍内の強硬な反対派を抑え込んだ調整能力を持つ。その宇垣の推薦で大臣職に就いた南次郎だから期待できるはず。さらに参謀長の金谷範三も幣原外交に理解を示す人物だった。心強い協力者が陸軍内の重要ポストにいるわけだから、政友会の力を借りずとも関東軍の暴走を食い止める自信があったのだ。

 


幣原のそんな展望も、「朝鮮軍の独断越境」という報で暗転する。朝鮮内の日本軍越境は国外出兵に相当し、内閣の閣議を経て天皇の奉勅命令ではじめて認められる。この手続きを無視することは重大な越権行為であり、厳罰は免れない。石原たちはそんな高いハードルも易々と踏み越えていくほど、満州占領の執念に燃えていたのである。その行動は中央でくすぶる陸軍参謀たちを突き動かした。

 


満州事変の1カ月後、陸軍中央の参謀らが国家改造を唱えて謀議を図るクーデター未遂事件(十月事件)が発生。その余波で若槻内閣は崩壊した。首謀者たちに対する厳正な処分が求められたが、陸軍首脳は不満分子の反動を怖れ中途半端な処分でお茶を濁す。下克上の気風は確実に陸軍組織を蝕んでいた。

 


度重なる軍部の不祥事を受けて進退を迫られた若槻総理大臣は、内務大臣安達謙蔵から「協力内閣」の樹立を提案される。この難局を乗り切るには民政党・政友会が手を結ぶしかない。奉天占領があったばかりのときに林総領事が外務省に投げたのと同じ提案であった。しかし、若槻は政党政治を否定する協力内閣には難色を示し、閣僚たちも猛反発した。結局、安達が反旗を翻したことで若槻内閣は総辞職を選んだ。

 


若槻は戦後、矢次一夫との対談で「安達は久原房之助(政友会)と手を結んだ悪党だよ。軍部に対しては迎合せず、毅然と対処しなければならない。軍部を抑えたかったが、その機会を得られず終わって残念に思う」と無念を滲ませた言葉を残している。あのまま若槻内閣が続いたとして軍閥政治の芽を摘めたかは検証が必要だろう。

 


満州事変後に惹起した軍閥政治は、ふたつの大きな政治システムの改悪をもって頂点を極めた。岡田啓介内閣で成立した「在満政治機構改組」は、満州の事務権限を陸軍に明け渡すもので、これにより満州国の軍事・外交・行政の一切を関東軍司令官が掌握せしめる制度基盤が完成した。さらに広田弘毅内閣で「陸海軍現役武官制度」が復活。内閣の生殺与奪権は事実上軍部が握った。こうして「政府のなかの陸軍政府」は誕生した。

 


ちなみに岡田内閣は、満州事変時の最高責任者である本庄繁、満州国創立時の陸相である荒木貞夫への男爵授爵の奏請を陛下に対して行っている。軍部の要求を丸呑みするだけの論功行賞は、決起をうかがう陸軍の反動分子たちにどう映ったか。日米戦争に反対し、東条内閣の倒閣を強く働きかけた岡田啓介に対しては、戦後一定の評価もなされるが、肝心の総理大臣時代に何をしたかについてもしっかり見ておかなければならない。

 


満州事変のような、国家の命運を左右する大事件に対応できるほど、国内の政治基盤は盤石ではなかった。有為の人材も乏しかったといえよう。有事のときほど政権の安定と強さが問われる。これはいつの時代にあっても不変といえる。

騒がれている問題の本質は何ですか?

今、熱い政治的イシューと言えば?

最近、強く思うことがあります。世間を賑わせている社会的、政治的なニュースについてです。

 

と言っても、ニュースそのものじゃなく、「これはなぜ問題となるのだろう?」という根本的な部分についてです。

 

たとえば、最近の森友学園加計学園の問題。政治に興味のない人でも、これが今ワイドショーの最前線に乗せられているイシューだとは中学生でも知っているでしょう。しかし、この世間を賑わしている話題の何が問題なのか、ズバッと答えられる人が、どれくらいいるかは見当もつきません。

 

それはなぜ、問題となっているのですか?

森友学園加計学園の問題。これらは、なぜマスコミで問題視され、多くの国民が関心を持っているような雰囲気となっているのか?

 

テレビや新聞が言うように、安倍総理への忖度があったからか? 時の権力者と近い人物が不透明に利益を得たからだろうか?

 

ひょっとすると、「森友・加計がなぜ問題なのか」の問いに対して、多くの人がそう答えるかもしれない。

 

私は、全く別の見解を持っている。

 

先の問いを投げられたら、私は迷わずこう答える。

 

「それは、マスコミが問題にしているから」だと。

 

何が問題かは、マスコミが決めている

多くの国民が、「何となく」沖縄に基地があるのは問題だと考えている。それは言われている通り、沖縄県民への負担が重いから? それとも、環境破壊があるから?

 

それは違います。マスコミが騒いでいるから、みんな問題だと感じているのです。

 

森友・加計、沖縄の基地、あるいは原発歴史認識の問題も、御多分に漏れず同じことが言えると思います。

 

「問題があるから、マスコミが取り上げるんだろう」という反論が来るかもしれません。では、すべての問題を、マスコミは取り上げてくれているのでしょうか?

 

政治家の失言や不祥事、汚職にしたって、そのすべてが俎上に上がっているわけではありません。「どの政治家の、何を問題とするか」は、テレビや新聞の世界にいる人たちが決め、「世間」という陳列棚に品出しされます。奥の在庫棚には、世の中に出された問題より、もっと根が深く、影響や重要度の高いニュースが店ざらしにされているかもしれませんが、マスコミがオープンにしてくれなければ私たち国民は全く知る由もありません。

 

問題にされなかった拉致事件

マスコミが取り上げなかったことで、世間の多くの人が問題があるにもかかわらずその問題性に気付かず、長年放置され続けたニュースや事件はたくさんあります。その典型例が、北朝鮮による拉致事件でしょう。

 

横田めぐみさんをはじめとする、多くの日本人が北朝鮮工作員によって拉致された事案。これがマスコミに大々的に取り上げられるようになったきっかけは、小泉政権下での日朝拉致交渉あたりからです。2002年、当時北のトップだった金正日が小泉元首相との会談で拉致を認めるまでは、多くの日本国民は北朝鮮による拉致の実態を知らされず、時を過ごしてきたことになります。

 

実は、北朝鮮が国内で多くの日本人を拉致していることは、一部の政治家や警察、自衛隊関係者、メディアの間では周知の事実でした。政府が公式の場でその問題を認識したのは、昭和63年参院予算委員会での「梶山答弁」でしょう。

 

国家公安委員長(当時)の梶山静六が、日本人アベック失踪事件に関して、「北朝鮮による拉致の疑いが極めて濃厚」と答弁したのです。スナックのバーや居酒屋の席で漏らした言葉ではありません。公安のトップが、国会という場でそう発言したのです、なのに、この証言を取り上げたのは産経新聞のみで、ほかのメディアはすべてスルーしたのです。

 

果たして、これはマスコミにスルーされる問題でしょうか? 日本国民が、長年、他国に連れ去られた事件を、「別に問題ない」と答える国民がいるでしょうか? 残念ながら、その当たり前ともいえる感覚が日本のマスコミになかったということでしょう。

 

指さす方向でなく、その指をさしている人間を見てみよう

一般的に、日本人は政治に関心が持てないと言います。本来、民主主義の国で国民が政治に無関心であることは、かなり危険な状態であると考えます。国民と政治の間に横たわる巨大な空白を突いて、好き放題やっている集団が存在することに、そろそろ国民は気づくべきではないでしょうか。

 

加計学園の問題について、多くの国民が疑念を抱いています」今日もどこかの報道番組で、ニュースキャスターがしたり顔で言っているのが聞こえてきそうです。あたかもすべての国民を代弁するかのような口ぶりで、そこには確信犯的な世論誘導の意図も見え隠れします。

 

ブラウン管から飛び込んでくる言葉を、何も考えず、漠然と受け入れているだけでは、問題ないことでも問題あるかのように思い込んでしまいます。そんな状態を、「洗脳」と言うんじゃないでしょうか。

 

某定食屋でのグチ

私がよく利用する有名全国チェーンの某定食屋に対し、言いたいことがある。

 

いや、正確には、お店ではなく、そこにご飯を食べにやってくる客に対してである。

 

このお店は、全国的にも知られる有名チェーンの定食屋で、お代わり自由がセールスポイントの食べ物屋さんである。メニューも豊富で、ご飯もおいしく、なおかつお代わり自由ときたら、行きつけとして利用したくなるのは私のようなアラフォー独身会社員だけではないだろう。そんなことは、重々承知しているつもりだ。

 

しかし、それでも言いたい。そこに集う一部の客に。

 

ここは居酒屋ではないんだぞ。

 

ここはファミレスでもないんだぞ。

 

まして、何時間もダラダラ居座ることを許された喫茶店じゃないんだぞ。

 

なぜ、決して広くはない駅前の定食屋に、5人も6人もの団体客がドカドカと押しかけてくるのか? このお店のマックス席は4人掛けテーブルである。それはつまり、それほど多くの団体客を想定したお店の作りにはなっていない、ということを意味するのだ。

 

この店舗に限らず、だいたいの定食屋はそんなもんだろう。

 

お店の選択を間違えている、と感じるのは、私だけだろうか。

 

それとも、単に私の了見が狭いだけだろうか。

 

気心のしれた連中と大人数で詰めかけて、ごちそうさまが済んでもすぐに帰るわけがないのだ。絶対、小1時間くらい、あーでもないこーでもないとくだらないおしゃべりを続けるに決まっているのだ。つまり、この連中はハナから長居をするつもりで来ているのだろうと、いらぬ勘繰りを入れたくなる。

 

確かにこの定食屋は、ビールやおつまみも売っているので、安い居酒屋の代わりにはなるだろう。ファミレスに入っていろいろ注文するよりも、財布に優しくてお得かもしれない。そんな計算も働くからこそ、手軽に利用する集団の客も多いのだろう。けれど、定食屋の基本は定食を食べること。これに異論のある人はいないだろう。そして食べたらできるだけ早くお暇する。これも、多くの利用客の間で暗黙の了解となっているはず。だから、大学生がサークルの打ち上げなどに使っているところを見ると、どうしても眉をひそめたくなるのだ。

 

別に、間違いではないことはよく分かっている。お店としても、大勢の客が来店してくれて繁盛するのはうれしいはずだ。店長でもスタッフでもなく、一常連に過ぎない私がとやかく言う問題ではないことも確かだ。しかしそれでも、「本当にその選択でいいんですか?」と問いたいのだ。

 

本当は本人たちか、お店の店員にグチをこぼしたいのだけれど、それは完全なお門違いであると分かっているから、こうしてブログで愚痴っているのである。